母の介護と葬儀の記録(リアル体験)

親の介護・看取り・葬儀で困ったことを実体験ペースで記録しています。

父の死後の母親の暮らし

 


母の新しい住まい探し

父が亡くなり、母の一人暮らしが始まりました。

しばらくは父の代から続いていた仕事を一人で続けていましたが、年齢的なこともあり、いつまでも続けるわけにはいきませんでした。

また、住んでいた家にも様々な問題がありました。

築五十年以上が経ち、雨漏りなども出てきていました。さらに大家さんからの嫌がらせのような対応もあり、母も住み続けることに不安を感じていたようです。

仕事を終え、新しい住まいを探す

やがて仕事を終えることを決め、長年お付き合いのあった得意先は同業者の方へ引き継ぐことになりました。

次に考えなければならなかったのが住まいです。

私は一緒に住むことも提案しましたが、母は遠慮があったのか、それは望みませんでした。

そこで、私の家の近くで住める場所を探すことになりました。

しかし、七十歳を過ぎた高齢者が一人で賃貸住宅を借りるのは簡単ではありません。

良さそうな物件があっても、

「二年後には退去してください」

と言われたりして、なかなか条件に合う場所が見つかりませんでした。

思いがけない出会い

そんな時、地域の小学校で行われる「校庭キャンプ」の手伝いをする機会がありました。

そこで顔見知りの町会長さんたちと話をしていると、

「近くで貸家の募集が出ているよ」

と教えていただきました。

翌日、早速見に行くことにしました。

現地へ行くと、四軒ほどが並ぶ二階建ての長屋で、外から見た印象は正直なところ、

「少し古いかな」

というものでした。

外と中は別世界

ところが、中を見せてもらって驚きました。

室内はきれいにリフォームされていて、台所も使いやすそうでした。

さらにトイレ、お風呂、洗面台は新品になっていました。

外から見た印象とはまったく違っていたのです。

すぐに契約を決めました。

大家さんも以前の大家さんとは違い、とても親切な方でした。

住む期間に制限を付けられることもなく、安心して暮らせる環境でした。

母の新しい生活

その家は私の家から歩いて二、三分ほどの場所にありました。

室内はきれいにリフォームされ、設備も新しく、とても住みやすそうな家でした。

今振り返ると、あの時は本当に運が良かったと思います。

こうして母の新しい住まいが決まり、新たな生活が始まりました。

家が近くなったことで、私は仕事帰りや何か用事がある時には、できるだけ顔を出すようになりました。

この頃はまだ元気で、一人暮らしを続けていけると思っていました。

しかし今思えば、ここから母の晩年の生活が始まったのだと思います。

 

父親が亡くなったことを思い返してみました。

 


父が亡くなってからの母

母が一人暮らしをするようになったのは、父が亡くなってからでした。

父は個人で仕事をしていて、月の半分ほどは北陸や関東方面へ出張に行く生活をしていました。たばこもお酒も好きで、昔ながらの仕事人間という感じの人でした。

個人事業だったため、定期的な健康診断を受けることもほとんどありませんでした。

そんな父が、いつもの医院でレントゲンを撮った時、「少しおかしいところがある」と言われ、近所の少し大きな病院で検査を受けた結果、肺がんが見つかりました。

肺がんと手術

父は肺がんの摘出手術を受け、一時は少し回復したように見えました。

ただ、それまでのように頻繁に出張へ行くことは難しくなりました。

それでも仕事が止まることはありませんでした。

父の仕事は、母が電話対応をすることも多く、長年の取引先との付き合いもあったため、注文が途切れることはなかったのです。

今思えば、父の仕事は夫婦二人で続けていた仕事だったのだと思います。

再発と父の最期

そんな生活が五年ほど続いた頃、父のがんの再発が分かりました。

近所の大きな病院へ入院しましたが、その頃にはがんは色々な場所へ転移していました。年齢も七十五歳くらいになっていたこともあり、最後はホスピスのある病院へ転院し、そこで亡くなりました。

私が四十八歳か四十九歳の頃のことでした。

父が亡くなった後

父が亡くなった後の手続きなどは、私も仕事をしていたため、ほとんど一人で動いていたように思います。

母はその後もしばらく仕事を続けていました。

ただ、年齢的なこともあり、さらに当時住んでいた家の大家さんが、「出て行け」とは言わないものの、色々と嫌味なことをするようになったそうです。

そんなこともあり、最終的には、私の住んでいる場所の近くへ引っ越して来ることになりました。

今思えば、この頃から母の一人暮らしと、その後の介護へとつながっていったのだと思います。

滋賀の田舎のお墓への納骨へ

いよいよ行って来ました。

本日、滋賀県の田舎のお墓まで母の納骨に行って来ました。

天気予報では雨も心配していましたが、風は強かったものの雨は降らず、無事に納骨の日を迎えることが出来ました。

駅まで、いとこが迎えに来てくれました。

母を実家へ連れて帰る

まず最初に向かったのは、母の実家でした。

仏壇の前に母の遺骨を置き、手を合わせました。

もう母の兄も、お嫁さんである叔母さんも亡くなっていて、母の兄弟で生きている人は誰もいません。

静かな仏壇の前で、私の中では
「やっと帰ってこれたね。もうおじさんも叔母さんもいないけど、どうですか」
そんな言葉を母に問いかけていました。

母は生前、自分の父親から
「嫌ならいつでも帰ってこい」
と言われていたと、よく話していました。

その実家へ、今度は遺骨となった母を連れて帰る。何とも言えない不思議な気持ちになりました。

父の実家にも挨拶へ

その後は父の実家へ向かい、同じように仏壇の前に母の遺骨を置いて挨拶をしました。

さらにもう一軒、親戚の家にも立ち寄り、その後お墓へ向かいました。

地域によって違う納骨の形

しばらくしてお坊さんも来てくださり、お経をあげていただきました。

そして納骨をしようとしたのですが、母の骨壺が思っていたより大きく、そのままではお墓の中に入りませんでした。

また、この地域では骨壺のまま納骨するのではなく、遺骨を和紙や薄い布で包み、土に帰れるようにする風習があるそうです。

そのため、一度父の骨壺も取り出し、入れ替えを行いました。

地域によって納骨のやり方が違うことに驚きましたが、こうして父と母がまた同じお墓に納まり、無事に納骨を終えることが出来ました。

「やっとひと段落やな」

納骨を終えて帰る途中、妻と食事をしました。

その時に二人で、
「やっとひと段落やな」
そんな話をしました。

一月に母が亡くなってから、お葬式、手続き、法要、東本願寺への納骨、そして今回の田舎のお墓への納骨まで、本当に慌ただしく時間が過ぎていきました。

まだ寂しさが無くなる訳ではありません。ですが、一つひとつを終え、ようやく大きな区切りのところまで来たような気がしています。

昨日、東本願寺への納骨を済ませました。

東本願寺への納骨の日

五月晴れという言葉がぴったりの、少し暑いくらいの日でした。
一月に母が亡くなってから、お葬式やさまざまな手続き、四十九日、百か日と、慌ただしく日々が過ぎていきました。そしてこの日、ようやく京都の 東本願寺 への納骨の日を迎えました。

妻と二人で京都へ

本当は妹や息子夫婦も一緒に行ければ良かったのですが、今回は私と妻の二人でのお参りとなりました。

京都へ向かう道中では、一月からの出来事を自然と思い返していました。悲しむ間もなく、次から次へとやるべきことがあり、本当に慌ただしい数か月だったように思います。

大きな本堂と父の記憶

東本願寺はとても広い敷地の中に、大きな本堂が建てられていました。

父が亡くなった時にもここへ来ているのですが、その時のことは不思議とあまり記憶に残っていません。当時は今以上に慌ただしく、気持ちにも余裕が無かったのかもしれません。

母は生前、「東本願寺への納骨は費用も掛かるし、大谷祖廟でも良い」と話していました。ですが、お寺に相談したところ、「お父さんが本願寺に納骨されているのなら、お母さんも同じところが良いでしょう」と言っていただき、今回こちらへ納骨することに決めました。

納骨の日が決まって妹に連絡をすると、「お母さんもきっと喜んでいると思う」と言ってくれ、その言葉を聞いて少し気持ちが落ち着いたように感じました。

法話と本堂での納骨

受付を済ませて遺骨を預け、しばらくして納骨の準備が整いました。

その間、ホールで三十分ほど法話を聞かせていただき、その後、本堂でお経をあげていただきながら納骨を行いました。

静かな読経の声を聞きながら、この数か月の出来事が頭に浮かび、ようやく一つの区切りを迎えたのだと感じました。

葵祭で賑わう京都

平日の午前中でしたが、納骨に来られている方はとても多く、それぞれに大切な人を偲ぶ思いを抱えて来られているのだろうと感じました。

この日の京都は天気も良く、ちょうど 葵祭 の日でもあったため、街には観光客の姿も多く見られました。外国から来られている方も多く、厳かな気持ちの中にも京都らしい賑わいを感じる一日でした。

「やっとここまで来たな」

納骨を終えた後は地元へ戻り、妻と食事をして帰りました。

食事をしながら、「やっとここまで来たな。まだ来週には滋賀の田舎のお墓への納骨があるけど、もう少し頑張ろうな」と、そんな話をしました。

一月から続いてきたお葬式や法要、さまざまな手続き。振り返れば、本当に長いようで短い数か月でした。

まだ全てが終わったわけではありませんが、ようやく一つ大きな区切りのところまで来た、そんな気持ちになった一日でした。

東本願寺への納骨を前に考えたこと

 

■ 納骨という大きな区切り
納骨は、一つの大きな区切りになる行事だと思います。

母が亡くなってから、葬儀、法要と進み、
次はいよいよ納骨になります。


■ 父が元気な頃に決めたお墓
父が亡くなる少し前、
「お墓をどうするか」という話になったことがありました。

父も母も、滋賀県長浜の田舎の出身です。

兄弟それぞれのお墓も、田舎の墓地に建てられていました。

そのため、両親も亡くなったら故郷の土地に眠るのが良いのではないか。
そんな思いから、田舎にお墓を建てました。


■ 時代と共に変わるお墓の考え方
ただ最近は、ニュースなどでも
「田舎のお墓を守ることが難しくなっている」
という話をよく聞きます。

両親の世代、その兄弟までは繋がりがありますが、
いとこの子供の代になると、どうしても疎遠になっていきます。

遠い田舎のお墓に通うことも、簡単ではなくなってきています。

しかし、この先どうするかは、
結局は子供たちの世代に任せるしかないのだと思います。


■ 東本願寺への納骨
父は京都の東本願寺と、田舎のお墓の両方へ納骨をしていました。

母が残していたノートを見ると、
東本願寺には「本体のお寺」と「大谷祖廟」に納骨する方法があることを書いていました。

大谷祖廟は、お寺に紹介の署名をしてもらえれば、
それほど大きな費用は掛からないようでした。

一方、本体への納骨は、
お寺を通じて申し込みを行い、費用も15万円ほど掛かるとのことでした。

母は費用のことも考えたのか、
「大谷祖廟で良い」と書き残していました。


■ 父と同じ場所へ
ただ、父は本体の方へ納骨していました。

お寺に相談すると、
「お父さんが本体に納骨されているなら、お母さんも同じ場所へ納骨された方が良いでしょう」
と言われました。

お寺同士の事情もあるのかもしれません。

それでも、やはり父と同じ場所が良いのではないか。

そう考え、母も本体へ納骨することにしました。


■ 納骨の日程
申し込みは、いつものお寺を通じて行いました。

その後、東本願寺から日程の案内が届き、
納骨の日が決まりました。

こうして、また一つ区切りの日を迎えようとしています。


■ 次回へ
東本願寺への納骨の後には、
滋賀の田舎のお墓への納骨も予定しています。

故郷のお墓について、改めて考えることになりそうです。

要介護5で退院後に実際に準備したことと、使って分かったこと

 

■ 退院前にまず行ったこと
母が要介護5となり退院するにあたり、まず行ったのは部屋の整理でした。

これまで使っていた簡易ベッドや按摩器は使わなくなるため処分し、
テーブル代わりにしていた炬燵も片付けました。

部屋を広く使うことと、つまずき防止のためです。

また、床には段差や凹凸が出ないようにカーペットを敷きました。


■ 生活を一部屋にまとめる工夫
できるだけ移動を少なくするため、
台所にあった冷蔵庫も部屋の隅へ移動しました。

一つの部屋で生活が完結できるように考えました。

部屋の中央にはレンタルの介護ベッドを設置しました。


■ 設備・福祉用具の準備
退院後の生活に向けて、以下のものを準備しました。

・トイレの手すりの増設
・車いす(レンタル)
・室内移動用の手押し車(レンタル)
・簡易トイレ(買取)

簡易トイレについては、レンタルではなく買取でした。
おそらく、一度使用したものを使うことに抵抗がある方が多いためだと思います。

また、ベッドに座ったまま使えるように、
キャスター付きで固定もできる机も購入しました。


■ 介護サービスの利用
食事については、
朝と夕方はヘルパーさんに来てもらい、
昼食はお弁当を利用することにしました。

このお弁当は配達時に安否確認もしてくれるもので、
玄関にはキーボックスを設置し、鍵を開けて入ってもらう形にしました。

また、デイサービスは週1回利用することにしました。

これは入浴の問題もあり、
家で一人でお風呂に入るのは難しいためです。


■ 見守りのための工夫
見守りのためにカメラも設置しました。

インターネット回線の工事も必要でしたが、
結果的には設置して良かったと思います。

動きを感知して確認できることや、
本体のボタンを押すだけでこちらの携帯に連絡が来る機能もあり、
安心感がありました。


■ 実際に使ってみて分かったこと
最初は必要だと思って準備しましたが、
実際に使ってみると見直しも必要でした。

ヘルパーさんの回数が増えると、その分費用もかかります。

そのため、朝食については自分たちで対応できると判断し、
サービスを減らしました。

また、1か月ほどして慣れてきたため、
デイサービスは週2回に増やしました。


■ 薬の管理について
母の薬は日にちごとに分けられていましたので、
朝と夕方に飲む分を分かりやすく配置しました。

ただし、誤って飲んでしまうことがないよう、
手の届かない場所に保管するようにしました。


■ これから準備される方へ
要介護5での在宅介護は、
準備することも多く、費用もかかります。

ただ、実際に使いながら調整していくことも大切だと感じました。

これから準備される方の参考になればと思います。

昨年の母親の異変の始まり(その7,まとめ)


母の介護と最期、この1年を振り返って思うこと

 

■ この1年を振り返って
去年の3月頃から母の様子に異変を感じるようになり、
6月の転倒による骨盤骨折、入院、そして要介護5へ。

そこから奇跡的な回復を見せ、9月には退院。
短い期間ではありましたが、自宅での生活を取り戻すことが出来ました。

しかし、その後クモ膜下出血により再び入院し、
意識が戻らないまま、最期を迎えることになりました。

この約1年の出来事は、自分にとってとても大きなものでした。


■ 介護の期間について思うこと
介護と言っても、私の場合は約1年ほどでした。

もっと長い期間、介護をされている方も多くおられると思います。
そう考えると、自分の経験はまだ短いのかもしれません。

ただ、この1年で起きたことは、
決して短いとは言えないほど濃い時間でした。


■ 振り返って感じること
「あの時こうしていればよかった」
そう思うことは今でもあります。

もう少し早く気づけたのではないか、
違う判断が出来たのではないか。

振り返れば、いろいろな思いが出てきます。

それでも、その時その時で考え、
出来ることをしてきたつもりです。


■ 介護の中で感じた現実
介護は、準備や費用、手続きなど、
思っていた以上にやることが多くありました。

また、回復したと思っても、
状況が大きく変わることもありました。

先の見えない中での判断の連続だったように思います。


■ 母から学んだこと
母は、最後まで自分の生活を大切にし、
出来ることは自分でやろうとしていました。

回復していく姿を見た時、
人の持つ力の強さを感じました。

そして、最期の時間の中で、
生きること、そして見送ることについて、
いろいろなことを考えさせられました。


■ これからについて
この経験が、これから同じような状況になる方にとって、
少しでも参考になればと思い、書いてきました。

正解はないと思いますが、
一つの体験として読んでいただければと思います。


■ 最後に
もし同じような経験をされた方がおられましたら、
コメント欄で教えていただけるとありがたいです。

また、これから介護をされる方の参考になれば幸いです。